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チェルノブイリ健康被害の報告書

以下、311に始まった福島原発事故のおよそ半月後に書いたtweetdeckの短文であるが、tweetdeckのサービスがアクセス不能になっているので、サルベージしてきた(20120601)。


一般的なチェルノブイリでの健康被害に関して短いまとめは、英文ウィキペディアのページ"Chernobyl Disaster"の一項目にまとめられている[2]。日本語訳は数日前になされたこちら[3]にある。1986年のチェルノブイリ原発事故によって大気中に放出された核分裂生成物による健康や環境への影響の報告書として頻繁に参照されるのは、(1)原子放射線の影響に関する国連科学委員会(UNSCEAR)による一連の報告書 [4]と(2)チェルノブイリフォーラム(IAEA、国連のさまざまな機関、ベラルーシ、ロシア、ウクライナ政府によって構成される)による一連の報告書[5]。(1)は、甲状腺癌以外に有意な影響はない、としている。たとえば、肺がんや先天性異常の増加は認められない。甲状腺癌の発生は6000名ほどで、うち死者は500名、としている。(2) はその構成メンバーにUNSCEARを含んでおり、結論は同様。ただし、被曝した60万人のうち、死者4千、としている。また、問題は生理学的な影響よりも、放射線被曝による被害を過大に自己評価することによる精神状態の悪化にある、とも。
こうしたいわば公式報告に反論する報告として、グリーンピース[6]や核戦争防止国際医師会議IPPNW[7]による報告がある。前者は90年から04年の間に、ロシア、ベラルーシウクライナだけで20万人に死をもたらした、としている。後者は、今でも一万人が事故の影響で甲状腺癌であり、今後も5万人への影響が見込まれる、としている。
更に今回2009年チェルノブイリ原発事故による健康被害についての、米国科学アカデミーの論文集では事故による多数の死者を見積もっている。"Chernobyl: Consequences of the Catastrophe for People and the Environment"(2009)[1]。
この米国の論文集[1]の執筆者の一人、ヤブロコフはグリーンピースの報告書の執筆メンバーでもある。これまでカバーされていなかたスラブ語で書かれた論文、資料、ネット上のデータを広汎にまとめあげた内容。1986年から2004年までの間に事故の影響による死亡者数は98万5千人であるとし、UNSCEARやIAEAによる健康への影響は、過小評価であると批判している。
この論文集を分析したレビューとしては、Dreicer(2010)[8]がある。これを紹介する。まず一般論として
(1)膨大な量のデータが紹介されているが、スラブ語圏の論文にかたよっている。
(2)単位などが統一されていない。
(3)健康への悪影響を否定した論文の無視
(4)自分で統計をとったわけではない
科学的な批判としては
(1)いわゆる”線形相関説”の採用。被曝量と発症率を低濃度被曝の領域に外挿することの妥当性。これは10年来、論争にあるが、と断っている。
(2)統計的に被曝量とその影響の相関を検証する疫学的方法論に対して報告者が信頼できないこと。

科学的な意味での批判(1)に関して:死者の数の推定が膨大になるのは、これが理由で過大になっているという説明はよくわかる。事故による放射線の影響かどうかわからないレベルの低濃度で、死亡したうちの確実にX%は事故由来である、と死亡者数に含めることになるから。私もいわゆる閾値は存在しないはずがない、と思う(なお、Natureのチェルノブイリ事故20周年に掲載されたコメンタリーにもこの議論にふれている[10])。というのもDNA修復メカニズムやアポプトシス(積極的細胞死)は自然放射線被曝に対する補償としても進化してきたのだから、どこかにある程度の幅をもった閾値はある。要はそれがどこになるか、ということ。年齢、性別、被曝線量率の影響、などを考慮すれば、さまざまなレベルが設定されるべきだが、どのような値か、となると私にはなんともいえない。
科学的な意味での批判(2)に関して:統計計算結果を眺めただけなのでなんとも言えない。ただそうした報告者のICRPへの不信に基づいて議論がなされている、とした場合、報告者たちの「悪影響を探り出す」というバイアスがかかっているということは想像できる。したがって、紹介されたデータの報告者による解釈には注意を要する。一方、観測されたデータそのものは注意深く扱うべき。確かに観測、計測されたかどうか、ということをオリジナルの論文、ないしは引用されたプロットを眺めて判断するしかないだろう。測定の部分は、ひとまずは測定した人間を信頼するしかない。
以上のことから、米国論文集[1]が98万5千人という死亡者数に関しては信頼しないほうがよい。著者たちの結論のみを採用するときにはその結論のもとになっているデータをみながら慎重を期したほうがよい。また、掲載されたそれぞれのデータに関して、反証となるようなデータが未掲載の可能性があるので、この点、自分でそれがないかどうかさがして比較したほうがよい。ただ、これまで英語圏で未発表だったデータのプロットや表を虚心坦懐に眺めるためにはよい。
アクセスできる人はNatureのコメンタリー(2006)[10]を読むことをすすめる。チェルノブイリからまだ20年しかたっておらず、広島・長崎の被曝の影響が40年、50年後にはじめて顕著に現れたケースなどを考えれば、今後にチェルノブイリの影響が観測される可能性がある、としており、そのことがタイトル副題" Too soon for a final diagnosis"になっている。
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(引用)
IAEA、WHOなど公式見解)
[2]英文ウィキペディアでの健康被害の要旨:http://en.wikipedia.org/wiki/Chernobyl_disaster#Assessing_the_disaster.27s_effects_on_human_health
[3]英文ウィキペディアの日本語訳:http://logo-syllabary.cocolog-nifty.com/blog/2011/03/wiki-assessing-.html
[4]国連科学委員会(UNSCEAR)報告書:UNSCEAR's assessments of the radiation effects(2005?) http://www.unscear.org/unscear/en/chernobyl.html#Health
[5]IAEAチェルノブイリフォーラム報告(2002):http://www-ns.iaea.org/meetings/rw-summaries/chernobyl_forum.asp


(自然団体などによる批判的報告書)
[6]グリーンピース"The Chernobyl Catastrophe - Consequences on Human Health" (2006).http://www.greenpeace.org/international/Global/international/planet-2/report/2006/4/chernobylhealthreport.pdf
[7]核戦争防止国際医師会議IPPNW報告:"20 years after Chernobyl ? The ongoing health effects" (2006), http://www.ippnw-students.org/chernobyl/research.html


(2009年米国アカデミー論文集、およびそれへのレビュー・批判)
[1]米国報告書"Chernobyl: Consequences of the Catastrophe for People and the Environment"(2007, 2009) http://www.nyas.org/publications/annals/Detail.aspx?cid=f3f3bd16-51ba-4d7b-a086-753f44b3bfc1、報告書PDF=http://www.strahlentelex.de/Yablokov%20Chernobyl%20book.pdf
[8] Book Review: Chernobyl: Consequences of the Catastrophe for People and the Environment (2010, Mona Dreicer) http://ehp03.niehs.nih.gov/article/fetchArticle.action?articleURI=info%3Adoi%2F10.1289%2Fehp.118-a500
[10] Natureのチェルノブイリ事故20周年に掲載されたコメンタリー Chernobyl and the future: Too soon for a final diagnosis Nature 440, 993-994 (2006) doi:10.1038/440993a http://www.nature.com/nature/journal/v440/n7087/full/440993a.html